23/05/08 斗酒百篇

タイトル回収。

去年の暮れに突然やる気を出して、見切り発車で始めた割には、時折休みを挟みながらも、ついに看板の通り「百篇」を書き上げることができた。大抵のことにすぐ飽きて辞めてしまう生活が長かったから、本当に嬉しい。まだまだ自分もやればできるじゃないか、という自己肯定感のアップにもなった。

あと、タイトル回収は(タイトルに限らないが)、とても「良い」。漫画やアニメのサブタイトルや登場人物がメインタイトルそのものだったり(e.g. 進撃の巨人)。バンドのアルバム名がバンド名そのものだったり(e.g. サカナクション「sakanaction」)。特に忘れがたいのは、ミルクボーイが2019年のM-1で優勝したとき、つかみをアレンジして「今、トロフィーをいただきました~!」と番組を締めくくったやつ。種明かしや覚悟、大団円など種類はあれど、得られるエクスタシーは相当のものだ。

それに、4カ月前に桁が2つになったときにも思ったが、やはり桁が増えることはめでたいことである。大台に乗る、という言い回しがあることも納得。一方で、1桁から2桁、2桁から3桁までは割とスイスイ進むが、4桁まではこれまでに成したことの9倍を成さねばならないという事実に震える。次の繰上りまで900日。2年半。2025年の暮れとかだろうか。必ずとまではいかずとも、ちょっと成し遂げてみたい、斗酒千篇。

 

ところで、こうも頻繁にあれこれ考えて文章にしていると、どうしても気付くことがいくつかでてくる。

ひとつが、何日か前にも書いたけれど、日記やエッセイがごちゃごちゃになっているということ。「その日あった出来事」に基づいて書くのなら、それは日記の括りに入れるべきなのだろうけど、そうでないものも全部「日記」のカテゴリに放り込んでいるから、機を見て整理したい。

もうひとつが、書くこと自体が目的になってしまっている気があること。もともと、「自分が考えたり、思ったりしたことに、もう少し丁寧に輪郭を与えて残しておきたくなって」*1始めたものだけど、書き始める時間が遅かったりすると、おおよその分量に到達することばかりを意識してしまう。結果として、内面に湧き出たものの素因数分解を蔑ろにして、レトリックに満ちた駄文が生まれる。手段が目的になってしまっている典型例だ。嘆かわしい。もっと日々に余裕を持って、文選のごとく、丁寧に言葉を摘み取りたい。

いずれも、いや、特に後者は、書くことを習慣にしようとして可能な限り毎日書こうとしていた弊害だから、無理に絞り出すことを控えてもいいかもしれない。本当に仕事だけで終わってしまう寂しい日もあるから。あるいは、テレビやインターネット、音楽など、その他媒体の情報に接して考えたことを書くことを解禁してもいいかもしれない。今まではなんだかズルい気がして、かつ、すぐに「社会的」話題に取り込まれてしまうことが怖くて、極力避けていたけれど、ただの私的な書き留めだし、そんな自分ルールなんてなんだかどっちでもいいような気がしてきた。こだわりに雁字搦めになってものごとが続かなくなるやつ、良くない。

 

そういえば帰省したとき、母が三年日記を付けていた。去年の同じ日に何をしていたか見ながら、今日何をしたか書き留められる仕組みを知って、それはそれでいいな、と思った。物理媒体の良さだ。インターネッツに放流できないことも書けちゃうし!

やっぱり、物理的にせよ、電子的にせよ、その日の自分(の情動)を振り返るという営みは、次の日の自分の身の回りのことを感じ取るアンテナの感度を、少しずつ鋭敏にしてくれている気がする。

昨日は気付かなかったことに、今日は気付く。今日は思い至らなかったことに、明日は思い至る。その繰り返しで、「身の回り」はもっともっと、広がっていくのだと思う。そうした広がりが、いつか知らない誰かに行き着いて、「身の回り」は「世界」に育っていくんじゃ、ないかなあ。

なんだか不思議な終着点だ。こういう終わり方も久々。これからもこんな感じで書き続けていけたらいいな。

 

今日のお酒:ズブロッカ