23/02/28 Fiction[!]Function

(お酒を飲みながら書いていたら案外重めな内容になってしまって、いつの間にか寝てたので、起きてから続きを書いた。)

なんだかはてなブログのアプリにたくさん通知が来るなあと思っていたら、数日前の「翻訳できない世界のことば」にまつわる日記がはてなブログのトップに載っていた。考え込んだわけでもない日記だったので(考えがまとまった例なんてないけど)、なんだか恥ずかしかった。

 

はてなブログのトップページは、ライフハック的な記事が目に入ってくるのがどうしても居心地が悪くて、意図的に見ないようにしているので、久々に見に行った。

あまり目に入れたくない文字列の波を掻き分け掻き分け、「としゅひゃっぺん」と同じところに陳列されていたほかのひとの日記を読んでみたところ、それはそれは面白かった。インターネッツに流される日記のおかげで、自分の知らないひとが過ごす、自分の知らない世界を垣間見ることができて、他人の感性や興味を摂取できる(言い方が悪いな)し、行ってもいないのに海外旅行に行ったような気分さえ味わえる(VRゴーグルさえ着けずに、だ!)。

その日の出来事ひとつ取っても、詩的に情景を描くひと、フランクに端的な感想を添えるひと、むしろオススメすることに力点を置いているひとなど、まさしく十人十色な描き方が見られて興味深い。

それに、記事にタグをつけられることを知った! どこでそんなことができるのだ!?と思って編集画面を見まわしたら、一番意識の外に行きがちな、画面の左下、Windowsボタンのうえにちょこんと「タグをつける」が置いてあって(しかも埋もれやすい灰色だ)、早く言ってくれ!と思わず声に出してしまった。今日から付ける。

そうして人様の日記を辿る小旅行は幕を閉じたのだけど、いくつか思ったことがあったので、そのうちのひとつを書き留めておきたい。

 

というのも、昔話を書きたくないな、と改めて思った。たまに書いてしまうし、読むのは好きだけど。

以前、どこそこへ行って、こんなことがあった、それでこう思った、というのは、いつか弾が切れるアルバム捲りに過ぎない。いや、日記とて、せいぜい2,3時間くらい前までの昔話を語っているにすぎないので、本質的には同じなのだが、情動の鮮度が違うという言い訳をつけておく。

自分史を繙くよりも、「今日の自分」がまさしく「今日」感じたことを書き付けて置く方が、振り返ったときに有益だろう。それに、過去の記憶はかなりあやふやだ。思い返すこともひとつの楽しみではあるし、時を経てから見直すことで新たな発見もあるから蔑ろにはできないけれど、それを基礎に据えてあれこれ語るのは、もはや日記ではなくて、物語だと思う。

 

そう、だから、過去を物語という形態にして、美化して、装丁して、飾っておきたくはないのだ。

「人生に物語は要らない」という、そこそこ有名な(はずの)匿名ダイアリーのエントリがあって*1、それはもうどうしようもなく物語なのだけれど、自己暗示か決意表明のように見える最後の一段に助けられるので、たびたび読み返してしまう。

きっと「事実は小説よりも奇なり」という言葉は、少なくとも偽ではなくて真なのだ。でも、小説より奇なる事実を、わざわざ「小説」(=物語)にしなくともよいのではないか、こころの内の蝋燭に灯る、消えない火にしておくくらいがちょうどいいのではないか。

でもどうしてか、物語にしてしまう。物語にして、過去の道すがらのなんともない出来事を、意味ありげなものに仕立てたくなってしまう。

たぶん理由はたくさんあって、そのうちのいくつか明確なのだけど、終わりどころがないので、どうしてだろう、と考えるふりをしておく。

まあ、少なくとも、飾っておきたくはないと言いつつ、本当はぴかぴかに磨いて、ひとに見えるところに飾っておきたいのだ。そうでなければ、こんな日記、書くわけないもんネ。

 

お酒:ビッグピート