祖母が旅立った。
2親等以内の親類を亡くすのは生まれてこの方初めてだけど、もともと末期癌と分かってから時間があったからだろうか、割と受け入れられている。どちらかと言えば、そういう自分に少しショックを受けている。
でも、仕事を休み急いで地元に帰ったら、祖母の娘にあたる母も、その姉の伯母も、快活に動いていて驚いた。死の受容段階のどれにも当てはまらない様子で、あーでもないこーでもないと段取りを立てていた。
単に忙しいからか、それとも余命宣告を受けたときから受容が進んできたのか分からないが、聞くわけにもいかない。側にいる者として、どうすればよいか分からないよりも、葬儀屋に対する愚痴を聞いている方が心持ちとしては助かるのだけど…。
大学で死生学を学んだけど、すっかり忘れてしまったことに気が付いた。使わない記憶は褪せていく。会わないひとの記憶も褪せていってしまう。覚えておきたいひとのことでも、物理的に会うことができなくなれば、否応なしに、日々の荒波に揉まれて記憶は風化していってしまうのだろう。
そういう意味では、SNSにアカウントが残り続けるのは、悲しいことでもあるが、忘れないでいる助けにもなるのかもしれない。チャットやツイートや投稿が碑としてそこにあることは、記憶を深い海から引き上げる釣り針になってくれるだろう。
たくさんの写真も見た。祖母の卒業アルバム、結婚式、旅行、両親の結婚式、そして自分が生まれてからの写真。このところTwitterでも話題を見かけたが、写真はこれでもかと撮っておいた方がいいと、こんなに早く身にしみて感じるとは思わなかった。
それもたぶん、嵩張るとしても物理的な写真にしておいた方がいい。写真の山ほど分かりやすい「生きた証」は、ほかにあまりないんじゃないかと思った。
祖母との思い出はたくさんあるけれど、それはここには書かない。もっと大切に、抱きしめた後で、写真のように書き記してしまっておく。
そもそもこの日記自体を書くことも悩んだが、なんとなく書いておきたかった。
寂しいけれど、ありがとう、さよなら、ばーちゃん。