23/06/08 Once

現代って、なんでも後から見直すことができるよなあ、と思った。なんでもは言い過ぎかもしれないけど、なんでもとニアリーイコール。そう思ったのも、4月の日記祭の対談で語られていたことの記憶があやふやで、アーカイブはあるかな、と見に行ったら無かったからだ。現代で見返すことができない、少数の例のひとつに遭遇したからだ。

でも本来なら、われわれの日常は——過ぎ去った時は——永遠に失われて、見返すことができない。ものごとの重要性の大小に関わらず、「過ぎ去ったものをもう一度」ということは、記憶を手繰ったり、夢に見たり、そうした朧げで脆いものだったはずだ。

無論、過去のひとびとも絵や文字を用いて何かを記録し、何事かが失われることに抗っていた。そうした「記録する」行為は19世紀、写真と蓄音機によって飛躍的に進歩した。それでもやはり、見逃した番組が(録画することなく)すぐに見られるレベルまで到達した現代とは比べ物にならない不便さだ。

そう、今でこそ見逃し配信は一般的になったけど、ほんの少し前はテレビ番組を録画したり、ラジオの前に張り付いてカセットテープで録音したり、もっと前は決まった時間にテレビの前で待ったり。その一瞬を逃すまいとしていた。そういう一期一会的な、諸行は無常的な、刹那的なことは、もう少し大切にされるべきなのかもな、と思う。

いや、むしろ既にそうなっているのかもしれない。モノ消費ではなくてコト消費、さらにはトキ消費にシフトしているのは、そうした一瞬を大切にすることの表れなのだろうな。「いつでも、どこでも、なんどでも」に対する反動として、「今、ここで、一度だけ」しか経験できないものを、自分のなかに刻み込もうとする試みなのだと思う。ひとつしかない自分のボディで、全身全霊で受け止めることができるものを探しているように見える。

それって結局反動というか、まわりまわって原点に戻っている気もする。文明によって原始的な恐怖が排された結果、お化け屋敷やジェットコースターのように人工的にスリルを求める装置が生まれたのと軌を一にしている。

でも、そういう原点にあることって、別にお金を払って体験しなくても、目を凝らせば、あるいは意識的になれば、日常の隅々にちゃんと変わらずにあると思う。だって、今日と同じ日は二度と来ないわけだし。夜の川辺とか怖いし。

それに気づくかどうかは、ひとえに自分の感度の問題なのだと思うけど、そのセンサーは日々の忙しなさでどんどん鈍くなっていってしまう気がしている。なにせ、現に鈍っているから。それでも忘れまいと、写真に収めて、SNSにアップしたりするのだけど、それさえも、感度を鈍くしてしまう一因のような気がする。

とてもシンプルなことだけど、ただその日にあったこと、そのうちひとつだけでも、おのが心に焼き付けることができたなら。そしてそれを、はるか先の未来でも、何かの拍子に思い出すことができたなら、それがもっとも理想的なことだと思うのです。