23/03/20 Loss/Ross

何が勝ちで、何が負けか、というのは完全に主観的なもので、試合に勝って勝負に負けた、なんて言い回しもあれば、負けるが勝ち、なんて(負け惜しみの)言い方もある。

ひとつだけ確信を持って言えることがあるのは、いや、こんな大仰な言い方をしなくても至極当然なことだが、誰しもが負ける/負けたことがある、ということだ。勝利のみで終着点に立つことができるひとなど、すでに「ひと」ではない。

藤井聡太大谷翔平も稀代の天才だが、それは各々の(ここでは狭義に競技的な)領域においてのみであって、その垣根を一歩越えれば、そこではその他大勢に過ぎない。一芸を極められるひとは、主にその没頭する才能によって多芸に秀でるとも言うが、本領における「稀代の天才」にはなりえない。

ある分野におけるスペシャリスト、第一人者たりえても、それは任意の分野において通用する話ではない。そうした意味で、勝ち続けるとか、克服し続けるというのは土台無理な話なのだ。一国一城の主に上り詰めたひとならその城をよりどころにできようが、そうでない、どこにおいても「その他大勢」に過ぎない我々にとって、どこかでは必ず妥協しなければならない。さもなくば、こころが文字通り、ポキリと音を立てて折れるだろう。

 

少し横道に逸れることとして、そういう意味では、真面目と言うか、直情と言うか、そういうタイプのひとはメンタルの柱の柔軟性が低くて、外界からの刺激を吸収できずに、ポキリと折れてしまうのではないかな、と思う。テキトーなひとなら刺激を吸収できるかと言うと必ずしもそうではなくて、それぞれ許容値があるのでしょう、免震構造みたいに。

「自分を許せなきゃ他人も許せない」なんて歌った曲があるが、そんな「自分に厳しく、他人に厳しく」という公平性は、真綿で自らの首を絞めることとイコールのように思う。「自分に優しく、他人に優しく」というメンタリティの方が(情けは人の為ならず、と言うのだから)、幾分か意味があるだろう。

 

話を元に戻して、勝ち続けることが到底不可能だから、どこかで妥協しなければいけない、というところを考えると、どこにその妥協線を引くか、ということで、往々にして懊悩している気がする。

あるべき姿/あろうとする姿(=勝利)との乖離(=敗北)で引き裂かれそうになるつらさを、ひとはどうやって打ち消して、糧としていくのか。ひととの繋がりの中に溶かしていくのか、涙で薄めて飲み込むのか。そこの理解と受容が一番難しいのだろう。なんだか、キューブラー・ロスの「死の受容のプロセス」に似ている。

敗北は死を意味する、というのは、戦時下でなくとも通用するのかもしれない。理想の死、という意味で。

 

今日のお酒:バルブレア12年