24/04/24 丁寧 丁寧 丁寧に

買う買うと言い続けて買っていなかったクリスタ、CLIP STUDIO PAINTを買った。

機能をポチポチ触っているだけでも楽しい。こんなことまでできるのか!という驚きもある。一方でまるで使い方が分からない機能もある(パース定規のことだ)。完全に新しいおもちゃを手に入れた子供の気分。

特にレイヤー機能に気付いたときは、長いインターネット生活で見聞きしてきた「レイヤー」とはこのことか、これを分けないと大変なことになるらしい。と古い言い伝えを思い出した村人みたいにもなった。と同時に、昨夏現代美術館で催されていた「デイヴィッド・ホックニー展」で、近くにいたカップルが「紙にレイヤーはないから!」と話していたことも思い出した。その通りなんだよな。

線を引いてキャッキャするだけじゃあ意味がないし、どれちょっとリンゴでも描いてみるかと思ったら、線はともかく、塗り方が全く分からなくて困った。ペンもクレヨンも同じ線が出力されたように見える。一番触ってきたはずの水彩の色合いは、知っている水彩ではない。

鉛筆でならまだなんとかというところだったが、いずれにしてもリンゴ一個もまともに描けなくてビビった。このままだと百均でスケッチブックと水彩絵の具を買った方が格段にマシだったということになってしまうので、指南書を買おう、と思った。

でもこういうとき、どの本を買えばいいのかってかなり悩む。ウクレレを買ったときもどの本を買うべきかでかなり悩んだ。楽器と違ってソフトウェアだから開発元の本にすりゃいいかなと思っているけれど、たぶん本屋に行って見比べると悩む気がする。

その点、学術や資格試験の分野になると、レビューが蓄積されていて選びやすい。だが、そもそも絵というもの自体、ひとそれぞれの技法や上達してきたバックグラウンドが違うものだろうから、一口にこれが良いとはなりにくいんじゃないかと思う。実際、ウクレレの教本で迷ったのも、自分は弦楽器をそれなりに触った経験があったからだ。チューニングの仕方や音名なんぞ分かっとるわい!という感じ。

こういうときみんなは何を基準に選んでいるんだろうか。あまり考えずに手に取ったものを買うのかな。ダメなら買い直すみたいな? わからない。

よく考えたらそもそも絵の方の教本も買ったほうがいいんだよな。風景は高校生くらいまで好んで描いていたけど何も考えてなかったし、人体の仕組みなんてさっぱりだ。

まあでも、やったことがないことに挑み続けるのが人生かも。手癖で生きていても面白くないしな。

やるぞ!

24/04/22 斧音菊

世界は結構うるさい。ノイズキャンセリング機能のついたイヤホンを外すたびにそう思う。

ひとの足音、話し声。自転車を漕ぐ音、自動車のエンジンの音。葉擦れの音。犬の呼吸、鳥の囀り、虫の鳴き声。雨になれば、雨が傘を打つ音、靴が水を跳ねる音。駅に入れば券売機の音、改札の音、エスカレーターの音、アナウンス。電車の音。街に着いたら自動ドアの音。広告の音、客引きの声。

言葉として書き連ねても、それがどんな音か、明確にイメージできる。意識していなくても、音に溢れかえった日々の生活を経て、それらは記憶に刻み込まれている。

ところが、耳に捻じ込んだ小さな機械がこれらすべてを打ち消す。

音楽やラジオ、動画の音声、あるいは誰かの声に意識を向けるとき、本来ひとつひとつ意味を持って存在していた音々は「雑音」になる。耳のピントを合わせた先にある音以外は、ノイズとしてキャンセルされる対象だ。写真のように、被写体を際立たせる背景にはならない。

だからノイズキャンセリング機能は重宝され普及している。この機能のおかげで、移動時間に音楽やラジオを「雑音」に妨げられることなく、没入して楽しめるわけだ。でもよくよく考えてみると、そうして「その他すべての音」をシャットアウトするのはもったいないんじゃないか?ということを思う。

機械の音、聞きなれた定型の音声だけなら、まだ省いてもいいかもしれない。いつでも聞けるし、ガソリンや電気を消費するときの余剰エネルギーが漏れているだけと思うと、なにやら排泄物であるような感すらある。

しかし、自然や生物が生み出す音は聞き逃せない。それらはアンサンブルとなって、鼓膜を心地よく震わせる。車がほとんど通らないような場所にある公園で、座ってぼーっと晴天の空を眺めているときに聞こえる音は本当に素晴らしい。山道を歩くときだってそうだ、砂浜に座るときだってそうだ。ASMRとか聞いている場合じゃない。

と、いうことを、ウグイスの声を聞いて思った。

音は季節の移ろいを知らせてくれる重要な要素でもある。そういえば、1100年くらい前にも風の音で秋の訪れを詠んだひとがいた。

要するにどういうことが言いたいかというと、世界にはきれいな音があふれていて、そういうものを聞き逃さないようにしたいよね、ということだ。おいしい食べ物やきれいな絵や景色、ポップな曲が人気なのと同様に、もっと慈しまれていくようになるといい。

夏も近い。蝉の声、風鈴の音、祭囃子に、遠い花火の音がやってくる。

24/04/20 yolo

祖父母の葬儀が終わって、また一人暮らしのねぐらに戻ってきた。

親族として手伝う立場でもヘトヘトになったので、もっと近い関係にあった母と伯母の疲労は相当なものだろう。祖父の通夜のときに挨拶する二人の顔は青白く、不安になるほどだった。一晩明けたらよく眠れたようだったが、事務手続きが待ち受けていることに呆然としていた。悼む暇もなさそうなのが、本人たちの気分は分からないけど、こちらとしてはつらかった。

いやしかし、高齢化社会と言えど、やはりさすがに老夫婦が一週間と空けず、立て続けに亡くなることは滅多にないらしい。納棺師の方も、葬儀屋も、菩提寺の住職も、初めてだと言っていた。

いつか来ると分かっている離別でも、それが明確なグラデーションで、砂時計の砂が減るように近づいてくるものと、突如として、瞬きの間に訪れるものとがある。そういう当然のことを、わずか一週間で身をもって知った。

慢性的な病を患っていなければ、大抵の場合は後者の形で、つまり突然に、別れは訪れる。数年前に読んだ文章で気付かされたことだが、交通事故で亡くなったひとに、自分が今日死ぬと思っていたひとは一人とていないのだ。急病も言わずもがな。たとえば自分がこうして日記を認めている最中にも、身体のどこかで不具合が生じるかもしれない。恐ろしいことだが、しかし周知の事実として、誰も、誰しもの残された寿命の長さを知らない。

語られすぎて陳腐なことでも、厳然たる事実として己の目の前に突き付けられると、自らも語らねばならないと感じる。逆に言えば、これまで語ってきたひとびとは、すでにそれを経験したということだろう。実体験をもってして、ようやく言説は現実になった。いわゆる「悟り」ってやつかもしれない。もっと簡単に言えば、自分は青二才だった。

 

しかし、自分が経験していないがゆえに、真正面から受け止められていない言葉はいくつあるだろう。そして、それらに正対して真摯にその意味を理解しようとしたとして、どれだけのことを理解できるだろう。

おそらく、根本的に、真正面から受け止めて理解したと思っていても、それはその「つもり」でしかないと思う。でもその「つもり」には気付けない。だから、その言葉が語る意味を真に理解するときは、自分がその当事者になったときでしかないのではなかろうか。

それを踏まえたうえで、われわれは想像力をもってして、都度ある「自らが当事者となる体験」=「理解」によってその精度を高めていかねばならないのではないか、と考えた。

具体的には、いつ死んでも後悔しないように生きよう、という青い考えなのだけれど。

24/04/17 無題(2)

祖父も逝ってしまった。

もともと持病があって、身体がなかなか自由に動かない状態が長く続いていた。このところは足元も危なくなって、転んだら立ち上がるのもやっとな状態だった。

そうしたら、つい一月くらい前にひどく転んで、入院することになってしまった。しばらくの安静を言い渡されて、祖母、つまり祖父にとっての伴侶の葬儀にも出られなかった。

もともと入院したときにはとにかく帰りたがり、身体についている管を外そうとしたらしい。戦前生まれはさすがに丈夫だ、またすぐ元気になるだろうと思っていた。2月に会ったときにも、昼ごはんにパンを2つ、ヨーグルト、バナナ1本をペロリと平らげていたし。歳は60以上違うのに、自分より食べる量が多くて驚いたものだ。

ところが、祖母の葬儀のあとにお見舞いに行ったら、かなり弱っていて、正直ショックを受けた。入院してベッドに横たわる時間が増えるとますます弱るというのはなるほどこういうことか、と理解した。その時点では意思の疎通が取れたので、まだ大丈夫だろうと思っていたのだが、どうやらあっという間にお迎えが来てしまったようだ。やはり生涯寄り添った相手を失って、気力も衰えてしまったのかもしれない。

徐々に弱っていった祖母が亡くなったときは心情として受け入れの準備ができていたが、立て続けに、予想だにしなかった早さでいなくなられてしまうと、ちょっと厳しい。体力的にも、精神的にも。

とは言え、それは親戚中がそうなので、ここでへばっていてはいけない。孫の元気な姿を見せねばなるまいて。頑張らねばだ。

24/04/15 足を伸ばす、延ばす

ガジュマルを植え替えた。

半年くらい前に渋谷をうろうろしていたら見つけた鉢だ。このところTwitterでバズっている「ヌタウナギを枕にしているヒトデ」のヒトデのような恰好で、こりゃかわいいと思って買って帰った。いささか高かったが、鉢のデザインも気に入ったので、ウキウキで連れて帰った。

それからは割と丁寧にお世話をしてきたつもりだったのだけど、最近幹の表面がしわしわで元気がないな~と思っていた。でも新芽は次々生えてくるし、育ってきて鉢が狭くなったかな? 植え替えないといけないかな~、とか考えながら呑気に日光浴をさせて、葉っぱを撫でていた。

で、この週末実家に帰り、父もガジュマルを育てていたことを思い出して見せてもらったら、丸々とでっぷりしたThe ガジュマルの風体で、こりゃまずいぞと焦りが出た。

どうして今まで調べなかったのか不思議だが、ググってみると水分の過不足でしわしわになってしまうらしい。根っこがぶよぶよしていると水のやりすぎで根腐れしてしまっているとのことだったが、触ってみるとカチコチで、水不足が判明した。

買ったときについてきた紙に「冬は水やりを控えたほうが良い」と書いてあったので週に一回、ペットボトルの蓋一杯分の水をあげていたが、どうやら足りなかったらしい。温暖で多湿な環境を好むだけあって、結構大水飲み。かわいい。いや、でも今になってみると考えてみれば、確実にそんな量で足りるわけがない。室内で育てていたから、加湿器を恃みにしていた慢心もあった気がする。責任転嫁すると、水やりの頻度と量はもう少し正確に指示してほしい。

 

いずれにしても好ましくない状態にあることは確かなので、急いでダイソーに行って、鉢と石と土を買ってきた。今日はほぼ夏のような天気だったから、半袖のシャツで自転車に乗ると大層心地よかった。道中ホームセンターに行くことも考えたが、一人暮らしの人間が使いきれる量の土が置いてある気がしなかったのでやめた。

ダイソーにはなんだか微妙なデザインの鉢しかなくてかなりがっかりした。無地でいいのに余計なアルファベットを添えるのは何がしたいんだろう。どうして受け皿とセットで売らないんだろう。マシなのはないかと探していたらちょうどいいサイズだが、ガジュマルには合わなさそうなグレーの鉢があったので、仕方がないのでこれにした。土と石は小さめのサイズがあって、こういうところは百均の本領だと思う。栄養剤はちゃんとしたやつがよかろうと思って見送った。

家に着いて、外に新聞を広げて、ガジュマルと鉢をひっくり返した。かなり固くなった土の塊ともじゃもじゃの根が出てきて、こりゃ窮屈だったろうな、と申し訳なくなった。根と絡まった土をほぐして落とし、裸になったガジュマルには空になった鉢でくつろいでいてもらう。

新しく用意した鉢にネットと石を敷いて、土を入れる。ガジュマルにも新しい鉢に入ってもらって、まっすぐに、真ん中になるように支えながら、背丈とちょうどいいくらいになるまで土を注いで完成。たっぷりの水をあげて、植え替え終わった。

 

身体が慣れる間もなく跳ね上がった気温にやや疲弊しながらの作業だったけれど、精神的にはガジュマルに申し訳ない気持ちでいっぱいだった。狭かったろう水が欲しかったろう...と。

調べてみるとやはり暖かくなるとぐんぐん成長するらしい。特に5月からは育ちざかりみたいで、そこに間に合ってよかったとも思う。早くでっぷりとした雄々しい幹に戻ってくれますように!

24/04/11 無題

祖母が旅立った。

2親等以内の親類を亡くすのは生まれてこの方初めてだけど、もともと末期癌と分かってから時間があったからだろうか、割と受け入れられている。どちらかと言えば、そういう自分に少しショックを受けている。

でも、仕事を休み急いで地元に帰ったら、祖母の娘にあたる母も、その姉の伯母も、快活に動いていて驚いた。死の受容段階のどれにも当てはまらない様子で、あーでもないこーでもないと段取りを立てていた。

単に忙しいからか、それとも余命宣告を受けたときから受容が進んできたのか分からないが、聞くわけにもいかない。側にいる者として、どうすればよいか分からないよりも、葬儀屋に対する愚痴を聞いている方が心持ちとしては助かるのだけど…。

 

大学で死生学を学んだけど、すっかり忘れてしまったことに気が付いた。使わない記憶は褪せていく。会わないひとの記憶も褪せていってしまう。覚えておきたいひとのことでも、物理的に会うことができなくなれば、否応なしに、日々の荒波に揉まれて記憶は風化していってしまうのだろう。

そういう意味では、SNSにアカウントが残り続けるのは、悲しいことでもあるが、忘れないでいる助けにもなるのかもしれない。チャットやツイートや投稿が碑としてそこにあることは、記憶を深い海から引き上げる釣り針になってくれるだろう。

 

たくさんの写真も見た。祖母の卒業アルバム、結婚式、旅行、両親の結婚式、そして自分が生まれてからの写真。このところTwitterでも話題を見かけたが、写真はこれでもかと撮っておいた方がいいと、こんなに早く身にしみて感じるとは思わなかった。

それもたぶん、嵩張るとしても物理的な写真にしておいた方がいい。写真の山ほど分かりやすい「生きた証」は、ほかにあまりないんじゃないかと思った。

 

祖母との思い出はたくさんあるけれど、それはここには書かない。もっと大切に、抱きしめた後で、写真のように書き記してしまっておく。

そもそもこの日記自体を書くことも悩んだが、なんとなく書いておきたかった。

寂しいけれど、ありがとう、さよなら、ばーちゃん。

24/04/09 Sturm und Krank

今日ほど「春の嵐」という言葉が似合う日もなかったろう。

その語源通り、桜を散々荒らしていった。家の近所にも桜が一本植わっているが、その花びらが吹き飛ばされて門扉の前に積もっているのを見たときはびっくりした。誰かが撒いたのか?と。

日曜に出かけたとき、服装をミスったので完全に衣替えの気持ちになっていたが一気に引き戻された。怠惰のおかげで風邪を引かずに済んだ。ここ一年ぐらい季節の変わり目で必ず副鼻腔炎になっているので、今回こそは無傷で乗り越えたい所存である。

ところがまた明朝は冷え込むと言う。Twitterには「すべて」が流れてくるので助かる。今日より最低気温が10℃も低いらしい。三寒四温にも限度ってものがあるだろう。自律神経がぶっ壊れないか心配だ。もう4,5年も前になるが、適応障害で自律神経が失調したときは本当にしんどかったから、頼むから耐えてくれ~と祈っている。いや、祈る前にたくさん寝たほうがいいかも。

 

ひとが心身に不調を来すとき、原因は種々様々だが、内的なものと外的なものとで分けてみると、案外同じくらいの割合になるんじゃないかと思う。完全に感覚的な話。

ここで言う「不調」は調子が悪いことや、思わしくないことをぼんやりと指している。内外を隔てるものは己が身体の表面、皮膚である。皮膚をボーダーにして内側、たった0.1m^3しかなくて、最も自分に近い(自分自身かもしれない)のに、その実よくわからない機序がもたらす「よくない」こと。翻って皮膚の外側、toughでharshな世界(正確には、「世界-0.1m^3」の世界)がもたらす主観的に「よくない」こと。

体積的には比べようもないほど異なる内と外なのに、要因としては半々くらいだろうと感じてしまうのはなぜだろう。世界と言っても、せいぜい身の回りのことくらいしか世界と認識できないからだろうか。それにしてもまだ外のほうが広くて大きいが。

もちろんそれぞれ「よい」ことももたらすから、内側は内側で、外側は外側で、各々良し悪しのバランスが取れていて、結果内外でのバランスも保たれているとすれば、内外×善悪の4要素がそれぞれ同程度であると思えるからだろうか。

でもよいことばかりでも不調は来たさないしな。自分の感覚の由来がよく分からないのはちょっと気持ち悪い。やはり皮膚の内側と言えど自分自身とは言い難い。

 

結局のところ、いろいろなもの、ひいてはすべてが不思議なことに、うまーいこと相互に作用して、我々はなんとなく、いい感じに生きることができているんだろう。しかも、たぶんそれは我々が想像するよりはるかに絶妙なバランスで成り立っている。

今のところは、そう思い込むことにする。