24/04/22 斧音菊

世界は結構うるさい。ノイズキャンセリング機能のついたイヤホンを外すたびにそう思う。

ひとの足音、話し声。自転車を漕ぐ音、自動車のエンジンの音。葉擦れの音。犬の呼吸、鳥の囀り、虫の鳴き声。雨になれば、雨が傘を打つ音、靴が水を跳ねる音。駅に入れば券売機の音、改札の音、エスカレーターの音、アナウンス。電車の音。街に着いたら自動ドアの音。広告の音、客引きの声。

言葉として書き連ねても、それがどんな音か、明確にイメージできる。意識していなくても、音に溢れかえった日々の生活を経て、それらは記憶に刻み込まれている。

ところが、耳に捻じ込んだ小さな機械がこれらすべてを打ち消す。

音楽やラジオ、動画の音声、あるいは誰かの声に意識を向けるとき、本来ひとつひとつ意味を持って存在していた音々は「雑音」になる。耳のピントを合わせた先にある音以外は、ノイズとしてキャンセルされる対象だ。写真のように、被写体を際立たせる背景にはならない。

だからノイズキャンセリング機能は重宝され普及している。この機能のおかげで、移動時間に音楽やラジオを「雑音」に妨げられることなく、没入して楽しめるわけだ。でもよくよく考えてみると、そうして「その他すべての音」をシャットアウトするのはもったいないんじゃないか?ということを思う。

機械の音、聞きなれた定型の音声だけなら、まだ省いてもいいかもしれない。いつでも聞けるし、ガソリンや電気を消費するときの余剰エネルギーが漏れているだけと思うと、なにやら排泄物であるような感すらある。

しかし、自然や生物が生み出す音は聞き逃せない。それらはアンサンブルとなって、鼓膜を心地よく震わせる。車がほとんど通らないような場所にある公園で、座ってぼーっと晴天の空を眺めているときに聞こえる音は本当に素晴らしい。山道を歩くときだってそうだ、砂浜に座るときだってそうだ。ASMRとか聞いている場合じゃない。

と、いうことを、ウグイスの声を聞いて思った。

音は季節の移ろいを知らせてくれる重要な要素でもある。そういえば、1100年くらい前にも風の音で秋の訪れを詠んだひとがいた。

要するにどういうことが言いたいかというと、世界にはきれいな音があふれていて、そういうものを聞き逃さないようにしたいよね、ということだ。おいしい食べ物やきれいな絵や景色、ポップな曲が人気なのと同様に、もっと慈しまれていくようになるといい。

夏も近い。蝉の声、風鈴の音、祭囃子に、遠い花火の音がやってくる。