23/07/19 Takt

信じられないくらい暑い日が続いていて、体力を筆頭に、何かに取り組む気力すらもあっという間に蒸発してしまう気がする。

朝起きて洗濯して干したものが昼前には乾いていると、嬉しくもあり、恐ろしくもある。屋外は乾燥機と同じ状況にある、と通告されているに等しいからだ。この暑さが梅雨を踏まえて訪れるいうことを考えると、順序が実質的にドラム式洗濯乾燥機と変わらない。われわれは天からすると洗濯物なのかもしれない。

夜になればさすがに涼しかろう、と目論んでも、昼間日光を浴び続けたアスファルトが嘲笑うように、そして日中涼んでいた者共に復讐せんと、蓄えた熱を足元から這い上がらせてくる。この前も丑三つ時に、暑中見舞いを送るための切手を買いにコンビニまで行ったけれど、気付かないうちにパピコも買っていた。梨味。深夜のアイスは世界平和の味がする。

一方で、やむを得ず太陽が主役の時間に外に出ると、まず「ヤバい」という生命維持を司る原初の感覚が呼び起こされる。次いで、これが焦熱地獄か、酒ばかり飲んでいたから、落ちるにしても叫喚地獄までだと思っていたが、などと考える。そして、早くも滲みだしている汗に不快感を覚えながら、文字通り炎天下を彷徨うのだ。日傘や帽子、ハンディファンのような熱中症対策のもろもろも持ち合わせてはいるけれど、結局まさしく「焼け石に水」で、身体から水と塩が抜け出していくことを防いではくれない。

そうして猛暑に外を歩いていると、肌が焼けるような音と聞き紛うような、蝉の声が聞こえてくる。ヒトの掌にも満たない小さなボディで、盛んに暑さを煽り立てるあの音量を出せるのは単純に驚きだ。彼らからすれば相手を見つけるのに必死だから、そういう切迫感がより音を大きくさせていたりするのだろうか。

一種の定型的な心地よさ(暑いときはそんなことを感じる余裕などないが)があるリズムを繰り返す蝉の鳴き声を聞いていると、われわれの鳴き声、つまり、言葉についても、同じくリズムがある、ということを思う。

それは、意図的に文字数を制限したり、韻を踏んだりすることではなく、日常生活において一般に発する文章にも、聞いていて心地よいリズムと、そうでないものがある、ということだ。それは、間の取り方や抑揚といった、話者それぞれの性質に左右されるものもあれば、文章そのものの長さ、そしてそれを構成する単語たちのモーラや音節も重要な要素だと思う。そして、個人的には、単語によって構成されるリズムを大事にしていきたい。

聞くところによれば、文章、とりわけ読んでもらうことを意図している文章は、短く区切った方がいいらしい。畳みかけるリズムで引き込む目的があると同時に、主語や述語が増えると、文意が不明瞭になりやすいからだそうだ。

後者はなるほど、と思う。でも、前者については、それは違うな、いや、自分には「合わない」リズムだな、という感じる。もちろん、読んでもらうことを意図しているわけではない(いや、ちょっとくらいは読んでもらえたら嬉しいな、という気持ちはある)ということもあるけれど、やっぱり、文意が明確に保てるという前提のもとであれば、起伏に富んだリズムを文章で感じたいという気持ちがある。うまく例えられないけれど、ただの文章に、メロディのないテクノ・ミュージック的なノリがあったら楽しいじゃん、という。

 

久々に書いたら、なんだか言いたいことがうまく言えなくなっているような気がした。思いを言葉にする力も、何事とも同じく衰えていくらしい。また、できる限り続けて書いていきたいと思う。リズムを刻めるように。