23/03/27 氷塚

「時短」という言葉が、時短レシピだとか時短テクニックだとかで、やけに盛んに用いられ始めたのは、もう10年くらい前のことのように思う。ひょっとするとそれ以前から一般的に用いられていたのかな、と思い調べてみたら、第一義は労働時間の短縮ということのようで、なるほど、時短勤務というのは本家本元の使い方だったわけだ、とひとり納得した。

それはさておき、自分はライフハック的な、生活の効率化を図らんとする意味で用いられる「時短」が、とても苦手だなあ、と昔から思っていた。

ということを思い出したのも、生活家電を眺めていて、ロボット掃除機やドラム式洗濯乾燥機、食洗器といったものの種類がずいぶん増えて、かつ廉価になったと感じたからだ。メーカーとしても、すでに飽和状態にある既存かつ一般の家電でマイナーチェンジや不毛な価格競争を繰り返すよりも、そうした「生活の効率化」を実現するアウトソーシング的家電に力を入れて、競争に勝とうとしているのかもしれない。

結果、それらを用いて、煩雑(と捉えられがち)な家事をできる限りオートメーションして、効率化を図る、ということが割と普及してきていると思う。特に忙しめの生活をしているひとを見ていると、生活のシーンのほとんどが効率化されていて、家の中がもはや工場なのではないかと思えるほどだ。

そう、つまるところ、効率化の行き着く先は、ほとんど工作用機械と変わらない、ルーティンに従ってタイムラインが刻まれる生活になってしまいそうな気がするのだ。

もちろん、効率化の目的は余暇の捻出であって、効率化そのものが目的でないことは理解している。一方で、ジグソーパズルのように隙間のない生活リズムを組み立てて、一部空いたスペースを「余暇と定める」ような、カツカツの時間繰りをせざるを得なくなっているなら、それは生活の効率化よりもするべきことがある気がする。その状態を心地いいと思っているなら話は別だが。

当然そうした状況はこころの安寧を打ち砕くので、あらゆるところにバッファを持たせた生活を続けているし、今後も続けていきたいと思う。

「時短」をする前に、一日のスケジュールに優先的に入ってくる退けられないものをコンパクトにしていきましょうと、つまり第一義的な「時短」をするべきだと、そう思うだけの話といえば、それまでなのだけど。