23/03/26 Mammon

自分は、ひょっとするとかなり欲張りなのかもしれないと思い当たった。

しかも、取りこぼしをしたくない、という完璧主義的な側面がそこに強く固着してしまっていて、あれも欲しい、これもやりたい、それもできるようになりたい、思ったことは漏れなく経験したい、という動機がどこかにある気がする。

それは当然実現不可能な域にあるので、完璧主義の負の側面として、ひとつできなければ全部がどうでもよくなる。怠惰なだけと思っていた自分の態度は、強欲さと完璧主義の悪魔合体による自縄自縛状態だった可能性がある。

一方で、それに付随して思ったこともある。自分にとっては、一部のとりわけ大切なものを除いて、すべてが平等に、同水準に大切なのかもしれない、ということ。大切度が0~100で計測できるとして、一部のもの(たぶん、お酒とか)が90大切ポイントである一方、それ以外はおしなべて50大切ポイントが付与されている、みたいな状態だ。

それは裏を返せば、すべてが平等にどうでもいい、ということになる。つまり、あらゆるものが等価交換できる大切さに据え置かれているような気がするのだ。だから、何かの大切ポイントが50を下回るようになると、それをさっさと捨て置いて、ほかの大切ポイント50のものを触るようになる。それが大切ポイント90とかに到達してくれることを信じて。

この気持ちはたぶん、いつまで経っても満たされない、不満足な豚状態ともリンクしている気がする。大切なひとと過ごす時間だけで自分が満たされるかというと、必ずしもそうではないのだ。心のどこかではこの時間が永遠に、そうでないなら今すぐにこの心持ちのまますべてを終わらせてくれ、という無限の飢餓。いつまでも付きまとう、満たされない心地、新しい環境に行きたい気持ち、遍在していたい気持ち。

「ここではないどこか」が、本当に自分のことを満たしてくれるのではないか、「このひとではないだれか」が、本当に自分のことを満たしてくれるのではないか、「これではないほかのなにか」が、本当に自分のことを満たしてくれるのではないか、という地獄の堂々巡り。

これが自分を苛んでいるのだろうな。強欲の罪に対する罰なのかもしれない。こんなことをこころのどこかで考えながら、いまここにいることも、誰かと接することも、不誠実な気がしてならない。

いつか気が狂ってしまう気がする。自省の頻度も考えものだ。

 

今日のお酒:ロックアイランド