24/04/20 yolo

祖父母の葬儀が終わって、また一人暮らしのねぐらに戻ってきた。

親族として手伝う立場でもヘトヘトになったので、もっと近い関係にあった母と伯母の疲労は相当なものだろう。祖父の通夜のときに挨拶する二人の顔は青白く、不安になるほどだった。一晩明けたらよく眠れたようだったが、事務手続きが待ち受けていることに呆然としていた。悼む暇もなさそうなのが、本人たちの気分は分からないけど、こちらとしてはつらかった。

いやしかし、高齢化社会と言えど、やはりさすがに老夫婦が一週間と空けず、立て続けに亡くなることは滅多にないらしい。納棺師の方も、葬儀屋も、菩提寺の住職も、初めてだと言っていた。

いつか来ると分かっている離別でも、それが明確なグラデーションで、砂時計の砂が減るように近づいてくるものと、突如として、瞬きの間に訪れるものとがある。そういう当然のことを、わずか一週間で身をもって知った。

慢性的な病を患っていなければ、大抵の場合は後者の形で、つまり突然に、別れは訪れる。数年前に読んだ文章で気付かされたことだが、交通事故で亡くなったひとに、自分が今日死ぬと思っていたひとは一人とていないのだ。急病も言わずもがな。たとえば自分がこうして日記を認めている最中にも、身体のどこかで不具合が生じるかもしれない。恐ろしいことだが、しかし周知の事実として、誰も、誰しもの残された寿命の長さを知らない。

語られすぎて陳腐なことでも、厳然たる事実として己の目の前に突き付けられると、自らも語らねばならないと感じる。逆に言えば、これまで語ってきたひとびとは、すでにそれを経験したということだろう。実体験をもってして、ようやく言説は現実になった。いわゆる「悟り」ってやつかもしれない。もっと簡単に言えば、自分は青二才だった。

 

しかし、自分が経験していないがゆえに、真正面から受け止められていない言葉はいくつあるだろう。そして、それらに正対して真摯にその意味を理解しようとしたとして、どれだけのことを理解できるだろう。

おそらく、根本的に、真正面から受け止めて理解したと思っていても、それはその「つもり」でしかないと思う。でもその「つもり」には気付けない。だから、その言葉が語る意味を真に理解するときは、自分がその当事者になったときでしかないのではなかろうか。

それを踏まえたうえで、われわれは想像力をもってして、都度ある「自らが当事者となる体験」=「理解」によってその精度を高めていかねばならないのではないか、と考えた。

具体的には、いつ死んでも後悔しないように生きよう、という青い考えなのだけれど。