24/04/26 わいちゃくあいちゃった

長い間使ったものを捨てるのが苦手だ。

かと言って、捨てずに取っておこうという気持ちにもならない。部屋は整理整頓されていないと落ち着かないし、今の自分に必要なものたちで過不足なく満たされている空間がもっとも心地よいと思う。

そういう意味では、自分の持ち物はある程度、新陳代謝が働いていると思う。まだ使おうと思えば使えるものを捨てることはもったいないとは思いつつも、たとえば靴とかになってくると、みすぼらしさが出てくることも否めない。もちろん、服なら部屋着にするといったように、人目につかない場所でなら使い倒す道があるけど、そうでないものは中々、気に入っていても難しい部分がある。そういうものは、人間と同じようにものにも寿命があると思って別れを告げる。洗えるものや拭けるものなら綺麗にしてから捨てる。感謝の念を伝える儀式的な行い。母のそれを見ていて、なんとなく倣っている。悪い気はしない。

が、やはり、捨てられない・捨てにくいものもある。刃物や針、人形はまた別として、どうにも愛着が湧くものがある。持ち歩く機会が多いものなど特に顕著だ。これと一緒にいろんなところに行ったな、とか、自分の乱暴な扱いに耐えてよくぞここまで、ということを思ってしまう。それらに対しておいそれと別れを告げられるようなさっぱりさが自分にはない。結構ウェットなタイプみたいだ。

自分はかなりエピソード記憶が強い方である気がするので、そういうところも一因としてありそうだ。「それ」にまつわる思い出が芋づる式に噴出してしまう。思い出は感情を呼び起こす。思い出に結び付いた感情はあっという間に心に根付き、「これを捨てることはできない...」となってしまう。ほとんど形態としては寄生虫に近いが、しかしどっちが宿主か分かったものではない。むしろ共存かもしれない。

思えば、転勤族の子供だったので、ことあるごとに環境のリセット=思い出の断絶が生じていたこともあるかもしれない。区切られた過去を忘れないようにする紐帯として、その象徴たる「もの」を大切にしてきた(あるいは親が気を遣ってそうした)からこそ、それが尾を引いている可能性もある。

記憶にある限りでも最も古いものは、たぶん小さな財布だ。フクロウの頭の形をしていて、目玉が動く。義務教育を終えるまでに片手で足りない回数引っ越しをしたが、そのうち二番目の土地での思い出が朧げにある。この歳まで捨てられなかったのだから、たぶん死ぬまで一緒だろう。

こういうものたちは何と呼べばいいのだろう。相棒ではないし、お守りでもない。形見でもないし...。依り代? しっくりこない。

というようなことを、衣替えに際して思った。すでに捨てにくいTシャツが3,4枚ある。いつまで持ち歩くのやら...と思いながら、着なかったセーターは処分ボックスに放り込んだ。残酷なものである。