23/03/13 文壇の、或る老大家

気が付いたら毎年恒例の「流れる季節の真ん中でふと日の長さを感じる」日が終わっていた。つまるところ、別れの季節が到来したということだ。

卒業、転勤、退職、誰しも時の流れには逆らえず、また社会的圧力も相まって、「新しい環境」へ否応なしに押し出される。安住の地を見つけたら、そこにずっと居座りたいのが人間の性だと思うが、なかなかそうも行かない。そうも行くなら自分はずっと大学に居座っていたい。

もちろん、居心地の悪い環境から逃げられる、という点も、この強制的な人体の移動の無視できない利点ではある。反りが合わないアイツとも、平和におさらばできる神システムだ。

 

はてさて、「出会いがあるから別れがあり、別れがあるから出会いがある」という文句は、そんな時流に翻弄される自分を納得させるための美辞麗句に過ぎないと思うが、一方で、新しい世界に飛び込んでいくワクワクという要素も、なかなか無視し難い。

読み終えた物語を閉じて、新しい物語を繙くように、過去に心残りを感じながら、未知の世界へと駒を進めようとするときの、高揚と緊張。最も容易に想起できる類似した感情は、4月の新学期、新しいクラスに一歩入るときの気分だ。これが入学したばかりとなれば緊張の度合いが高まり、さらに知り合いが一人もいないとなるとさらに緊張の濃度が上がっていく(逆も然り)。

 

もはやそうした一喜一憂は遥か彼方の昔の話になってしまったが、それらを経験して血肉に変えた今となっては、一期一会という語がいかに正鵠を得ているか、骨身に染みてくる。

学校や職場という箱庭で、意識せずとも毎日会えていたひとたちとも、もはや予め日取りを決めたとしても一堂に会することは難しい。

いや、もちろん、もともと独立していた個々人の紡ぐ人生の糸が、たまたまある機会で結節点を作り、太い撚り糸となっていただけで、それが解けてみれば元通りになっただけではある。

その「たまたま」であることこそ、改めて意識すればとんでもないミラクルで、巡り合わせとはこういうことだ、と瞠目する。

そういう意味で、縦の糸はあなた、横の糸はわたし、と歌える(関係を築ける)ことは、有難いことなのだな、と思えた。

自分は歌えないけれど。

 

今日のお酒:バレッヒェン10年、クライゲラヒ13年