歳を重ねるごとに、経験は多く、厚くなっていくはずなのに、それとは裏腹に、だんだん思い出せる過去の記憶は少なく、かつ薄くなっていく。
それは、特段改まって言うことではないが、上、つまり現在から、新しい記憶が進行形でどんどん積み重なっていくからだ。どうやら記憶容量に上限があるらしい貧弱な我々の脳では、記憶の地層に新しいものが降りかかってくると、下の方にある古いものが強く圧縮されていくらしい。
そして、そのプロセスの最中に、些末なものはファイルが破損してしまって、再び開くことができなくなっていくようだ。名前が思い出せないなんて事態は象徴的で、name.datが壊れているのだと思う。
一方で、新しい記憶の重さに耐えて、形を保っている記憶はどうだろう。
こちらは(それが良いものであろうと悪いものであろうと)それしか思い出すことができなくなっていく、という意味も含めて、時の流れとともに、思い起こされる回数が増えていく。
だが、たぶん、想起されるたびに、それは少しずつ、しかし確実に、もとの形から変わっていっている。
変わっていくというのは、言い換えれば文字通り風化していくということであって、体験当時には心をグサグサ刺していた棘が丸くなって、手の内で撫でやすくなり、馴染んでくる、ということだ。
すでに「それ」はかつての自分の心を貫いたエキセントリックさを失って、旅のお土産のような、捨てるに捨てられない奇妙な存在感を放つ置物と化している(もちろん、その置物を愛することができるか、というのは別の話*1)。
この現象は、記憶の変容だけではなくて、きっとその記憶を思い起こすまでに自身の価値観が変化していることも大いに関係あるだろう。これは嫌な言い方をすれば「老化」なのだけど。
鋭い自分と、鋭い体験が、時間を間に挟みながら、お互いの刃を丸くしていく、そういう作用もきっとある。年の功ってやつだ。
ひょっとすると、こういう一連のプロセスを、「時が癒す」と呼称するのかもしれない。
だとすれば、「時が病気だったらどうするか」なんてことは考えなくてよくて済むので助かる。そういうことを考えてしまううちは、きっと自分自身が
今日のお酒:ビッグピート