23/02/03 ミネルバのたられば

華金らしく飲酒して帰宅したら、思考がまとまらなくなった。100文字近く書いて、睡眠負債の取り立てに遭い、椅子の上で意識を喪失していたので、今から続きを書く。

 

脳に落ち着きがない。

考えなくていいことまで考えている。思い出さなくていいことまで思い出している。覚えていなくていいことまで覚えている。思考が散逸していく。

 

それは、140文字で思考が切断されるものとは異なり、無限の連想ゲームが樹形図のように拡散していく感覚に近い。直近だと、Twitterの凍結祭り→災害→銃の悪魔→支配の悪魔→1984Big Brother is Watching You→I WANT YOU FOR U.S. Army、といった具合に、共通項は構造であったり、視覚的イメージだったり、制限がない。このときは銃の悪魔が超大型巨人にも分岐した。

この連想ゲームをメモか何かに書き留めようとしている間にもステップは進んでいくし、あるいは目についた他の何かからニューゲームが始まってしまうこともある。ある程度の段階までいくと、何を考えていたのかさっぱり、と思えるほど、中間地点の記憶がなく、出発点と終着点、その前後1,2個の項しか覚えていない。なにがなにやら。

 

記憶の面で言えば、芋掘りのごとく、一つの記憶が、それに連なる記憶を連鎖的に呼び起こすことが多い。そしてそれは、大抵、ものよりも、場所や風景に紐づいていることが多い。だから、都市部の再開発で、思い出の風景が徐々に減っていくことは、本当に嘆かわしい。

話が逸れたが、これは、別に記憶の良し悪しに関わらず、連想ゲームと同じように、瞬時にそのときの記憶がフラッシュバックする。きっかけひとつで映画を見たような気分になるが、現在の自分はすでに客観者にすぎず、良い記憶に浸るか、悪い記憶にどうしてこんなことを、と苛まれるか、完全にクジ引きである。

終わりよければすべてよし論者なので、自分の現在位置に自分が満足していれば(現在は別に終わりではないのだが、last的な意味だ)、おおよその記憶は良いものに思えるが。逆説の接続詞を使っている時点で、あとは言うまでもない。

紆余曲折は、行きついた先がハッピーエンドだから紆余曲折と語る(騙る)ことができるのであって、曲がり角で転落したものたちに、たらればを語る口はない。