腕時計が苦手だ。
巷ではやれロレックスだの、ブレゲだの、あるいはApple Watchだの、Fitbitだの、手首ひとつを飾るためだけにあれやこれやと忙しない。一度に一つしか着けられないものだから、ポジションの奪い合いになることも容易に想像できる。特にクラシックな時計に関して、たくさん持っているひとは、昨日はあれだったから今日はこれにしよう、みたいなことをしているのだろう。
何と言うか、いずれにしても、社会的な手錠の感が拭えない。
時間を確認する必要があるということは、外的な、特に社会的な要因によってそうせざるを得なくなっているはずで、とどのつまり時間に縛られていることを端的に表している。そのうえ、スマートウォッチに至っては、時刻のみならず、インターネッツを介してあらゆる紐帯をその手首に刻み込んでくる。便利な反面おぞましい。
すべてを自分の意の向くままに暮らせるなら、時間を確認する必要はほとんどなくなるだろうし、むしろ、そうありたいがために、腕時計、あるいは時刻そのものを忌避している感すらある。
そう、究極的には、すべての日々を、風の吹くまま気の向くまま過ごしていたいのだ。
眠くなったら寝て、目が覚めたら起きる。おなかが空いたらそのとき食べたいものを食べる。どこかへ行きたくなったらそこへ行って、誰かに会いたくなったらそのひとに会いに行く。晴れた日は出歩いて、天気が悪い日は家で過ごす、そうした思い付きだとか、気まぐれだとか、行き当たりばったりだとかで形容される日常が、この上なく理想なのだ。
だからと言うか、ささやかな抵抗と言うか、そうした理由で、予定を決める、ということを結構避けている。それゆえ平日の1/3を、有無を言わせず奪っていく労働とは大変に相性が悪いし、細切れで入ってくる予定(それがために時刻を確認することの煩雑さといったらない!)は腹立たしくて仕方がない。
あらゆる絆しから自由になったとき、そこに人間関係の繋がりを保てるのかということは度外視して、そのときそのときの我がこころのうちに湧き出た気持ちに正直ではありたい。
大人になる、とはそういうところを泣く泣く我慢できるようになることなのかもしれないが、そうしているうちに自分自身に鈍感になっていくくらいなら、そんな成長は願い下げだ。
今日のお酒:グレングラッサ リバイバル、バルブレア12年、ロックアイランド