23/03/06 凍る火柱

あらゆる行いがマネタイズされていくことに、大きな違和感と忌避感、ひいては嫌悪感を覚える。

もともと誰のものでもない、自然発生した場や文化であっても、目ざとい人間に見つかると、あっという間に柵が建てられてしまい、資本の世界に巻き取られて、貨幣の価値に置き換えられてしまう。

良いか悪いか、好ましいか好ましくないか、というローカルな尺度は圧し折られて、売れるか否か、ウケるか否か、という悪辣な(資本主義社会においては最も「正しい」と言い換えられる)物差しが、もとあった文脈や歴史を薙ぎ倒しながらすべてを画一化していく。

当然ながら、それは一般的に受け入れられる。「最先端」「流行」と冠を載せておけば、大量消費社会に上手に適合して時流でサーフィンをする層には、乾いたスポンジに水をかけるようにあっという間に浸透する。

もとからその場にいたひとたちにとっては、群衆が大挙して押し寄せてきて安息の地を奪われるわけだし、挙句、消費し尽された感が世間に漂って、ようやく居場所を取り戻した暁には、原住民はオワコンに乗り続ける変なひと、という目ですら見られうる。迷惑な話だ。

流行りものを好むひとびとにとって、それらの場や文化はファッションのごとく着替えて自分を飾るものに過ぎず(一部の層は魅入られて、「本物」として血肉にしていくことは無視できないが)、一定の時間が経てば、新しい「最先端」に飛び移っていく。フロンティアの消滅は一生訪れず、通り過ぎた後は悉く焼け野原になっていく。

 

そんなことを考えずに、ただすべてを消費していくのに十分なように、手持ちの貨幣を何らかの手段で増やしていくことに専念するのが、「我々」が「あるべき」と「求められている」画一化された姿なのだろうと思う。

 

鬱憤を書きなぐったような日記になってしまった。

どうせ自分も社会から逃れられないのだから、フリーライドした方が楽なのだろうけど、「流行りもの」の灰を踏みつけることができるようになるには、気付くのが遅すぎたかもしれない。

 

今日のお酒:ディーンストン12年