23/02/12 写し、写され、撮り、撮られ

カメラが欲しい。瞬間と空間を切り取って、いち画面として、絵画のように保存しておきたい。

いや、本当は、日常とはちょっと違う、ある時、ある場所にいる自分が、五感すべてで感じている、その「すべて」を記憶しておきたい。けれど、残念ながら、神経細胞の大海原にしまっておける(そして取り出せる)記憶は驚くほど少ない。だから、「ファインダー越しの世界」を代わりに残しておくしかない。

実際、今や何か珍しいことや非日常を体験する場があれば、誰も彼もがスマートフォンのレンズ越し、6インチそこらの画面を通して縮小された被写体を眺めて、シャッターを切っている。自分も、脳に追加でSSDでも刺せれば良いのに、と思いながら、不本意のうちに、カシャ、という、アーティフィシャルな音をあちこちで鳴らしている。

 

思い返せば、カメラが欲しい、という気持ちは4,5年前にもなったことがあった。

そのときにいくらか下調べした知識がうすぼんやりと(ここでも記憶の失われやすさが露呈している)残ってはいたが、さすがに具体的な名称は抜け落ちており、店頭のKissだとか、PENだとかを見て、「そうそう」と古い写真で思い出が喚起したときと似た心地になった。

一方で、今は(前もそうだったのかもしれないが)スマホとの連携が非常に容易になっていることに驚いた。「撮った写真をすぐに投稿できる!」って、そこまでしなくてはなりませんか...?と悲しくなった。大量情報消費社会は鮮度が命。日常から少し外れたところにあった、大切な余白の経験すらも、生き急ぐための糧に過ぎない。

と早合点したが、売り場を一周すると、端っこの方にはフィルムカメラインスタントカメラ、果てにはチェキまでもが扱われていたうえ、小さくない範囲を陣取っていて、完全に「一周回った」のだ、と驚いた。

アナログを愛する人間なので、当然フィルムカメラも愛おしい。自分でピンホールカメラを作って、現像までしたこともある。いや、それはともかく、フィルムカメラは現像するまで仕上がりが分からないワクワク感を(失敗していたときのガッカリ感と)楽しめることと、有限の撮影枚数をどう配分するか、というもどかしさが、やっぱり魅力的だ。まさしく自分が大切にしている「こころをくすぐる」機構が、フィルムとともに内蔵されている。

ところで、今はどこで現像してもらえるのだろう?昔はドラッグストアでもできた気がするけれど、本当にカメラ屋(とは名ばかりの家電量販店)くらいだろうか?

 

ここらで話をまとめようと思ったが、そういえば、まだフィルムカメラしかなかったころや、今のようにスマホSNSが発達・普及する前までは、「写真を撮る」ということはとてもプライベートで、共有することなんて考えられもしない行為だったな、とも思った。そもそもネガから焼き増さないと増えなかったり、ガラケーの容量と回線で画像のやり取りなんてしようものなら、あっという間にパケ死(死語)したりしただろう。

今や撮ったその瞬間から複製が、共有が可能で、しかも即座に拡散されていく。それは便利なようで、かなり、恐ろしい。

 

考えれば考えるほど、カメラや写真というものは面白い。シャッターを「切る」という言葉もそうだし、f値やら、ISOやら...。報道写真もそうだ。

とりとめがないし、すでに随分書いたので、いったん終わりにしておく。

買うならやっぱり、Kissかなあ。

 

今日のお酒:ズブロッカ