23/01/26 Roseau

あるまじきことだと自覚しているが、自分の人生を生きているという感覚が、かなり薄い。

どこかでリセットボタンを押すことができて、第四の壁の向こうにいる自分が、もう一度、今度はうまい具合に、「正解」あるいは「よりよい」選択肢を選んでくれるような、浮ついた万能感にも似た非現実感を持ったまま、今この瞬間をも経験している。

自省を日常的な行為として繰り返しているがために、幽体離脱的な状態が無意識のうちに継続していて、それがこのふわふわした覚束なさにつながっているのだとすれば、なんだか精神分裂の予兆のような気がしないでもない。

一方で、この現実から足を踏み外せば、セーブデータのロードなど不可能なことは、明確に意識できている。そうした奇妙な感覚に囚われている自分自身さえも、モニタに映ったキャラクターのごとく、見つめることができている。数日前に考えたマトリョーシカと全く同じだ。

異常に繰り返されたメタ認知は、良くも悪くも、最終的には自縄自縛に陥る主要因たりえると思う。

 

やや話が変わって、そうした感覚の下で、いつも連想されるのは「存在証明」という言葉だ。

いつからか(少なくとも20年くらい前からではあるが)、特に邦ロックと呼ばれるジャンルで、頻繁に用いられるようになった言葉は、字面のイメージだけで乱用されているように思う。神の存在証明から引っ張ってきたのだろうか?

要するに、自分が本当に存在していると証明する、と自認することをそれっぽく言う、Cogito ergo sumみたいなものなのだが、ここを信じられていないのだろうなあ、と他人事のように思う。

首を絞められることを好むひとたちが、それによって愛を、あるいは生を実感するのと同じような、圧倒的に自身の存在を肯定してくれる、そういったものが欠落したままなのだ。ひとは、どうやってそれを獲得するのだろうか?だんだんわからなくなってきた。

こうして軋んだ想いを吐き出せば、分かるかもと思ったけれど、そうでもないらしい。

 

今日のお酒:キリン 一番搾り とれたてホップ 生ビール 2022年収穫