23/01/25 生存戦略

人の背中を押すのがたぶん上手い。それに、話し相手がなんとも思っていない些細な出来事に、「素敵」ポイントを見出すのが上手い。と、思う。

と、思うし、相手の言動の動機を掘り返して、その行動はあなたが、ほかの誰かを慮ってしたことなのではないですか?それはとても素敵なことですよ(だからもっとしていいと思います)、と見出すことも得意な気がするし、買い物を唆すのも上手い、気がする。

自分の会話の癖をちょっとまとめただけの主観に基づいているから、判然としない語尾でまとめることになっているが、一方で、これらに通底するマインドを帰納できてはいない。

自分が優柔不断で、頻繁にチャンスを見逃すから、身の回りのひとが悩んでいるときには、自分の心情に正直に、ときには論理的思考を差し置いてまで、後悔のない選択をして欲しいと願っているのかもしれない。

それに、ひとそれ個人が自身だけで下した決断は、それが不幸にも功を奏さなかったとき、ひどく自信を苦しめる。自分がそうだったので分かる。そういったときに、ほかの誰かの後押しを言い訳にできると(もちろんそう都合よく転嫁できない性格のひとがいることも承知の上だが)、心に自分の立つ瀬が残る。

書き上げてみると、自分で言うのも何だが利他の精神に満ちていて、本当に自分はこんな人間だったろうか?と自分自身が疑わしくなってくる。昔はもっと、こう、自分が幸福でないなら、他人の幸福が崩壊することを願うような、醜い人間だったはずだが、これも年の功というやつかもしれない。

 

年の功というやつかもしれない。なんて冷静に言っている暇はなくて、そろそろ自分のほんとうの幸いというやつを、見つけないといけないような気もしている。焦る必要がない、ということも理解しているけれども。そこに甘んじていては、元の木阿弥だ。

とどのつまり、精神の面で、まことのみんなの幸いを願えるほど、まだ「功」は積めていない。燃え尽きる蠍には、まだ程遠い。