24/02/05 Thoughtseize

最近は映画をよく見ている。
サブスクでも見るが、もちろん映画館にも行く。

先週なんてもう、本当にわけがわからないが、3回映画館に行った。7日で3回。自分でもちょっとびっくりしている。
ゴールデンカムイ」「コット、はじまりの夏」「哀れなるものたち」の3本を見たのだけど、いずれも毛色が違って、全部今週見たのかちょっと疑わしいくらい、それぞれの記憶が別個に存在している。いや、もちろん、それぞれ一緒に見た相手も違うから、そういうところも作用していそうだけど。

一応感想も書いておこう。
ゴールデンカムイ」はエンターテイメント。The 娯楽映画といったところ。寒いのが苦手な自分としては見ているだけで凍える心地がした。氷点下何度だったんだろう...。
「コット、はじまりの夏」はきわめて文学的な、余情に満ちた、農場ASMRだった。暴力のないソナチネ。余韻がずしりと重かった。
「哀れなるものたち」は人間讃歌。イノセントなベラが、歪な世界を知り、自らの足で道を踏みしめながら進んでいく。われわれの時間で言えば2時間、その間に、彼女は"Improve"せんという決意のもと、まなざしは鋭く、真っ直ぐ前を見据えるようになる。震えた。
どれも面白かったが、やはり後者2本に比べると、「ゴールデンカムイ」は見劣りしてしまう。比較すること自体が酷な話ではあるが。

そんでもって、ちょっと前にサイバーパンク エッジランナーズ目当てに加入したネットフリックスで、「映画大好きポンポさん」も見た(エッジランナーズはまだ見ていない。)。

その中でひとつ、ぶっ刺さって抜けない台詞がある。「幸福は創造の敵」。言うまでもなく、かつ運が良いことに、心当たりがあったからだ。

満たされているとき、ひとは思索に耽らない。現実で少し手を伸ばすだけで己が心のゲージ(自分は「まんぞくゲージ」と勝手に呼んでいる)が充填されるとき、胎内巡りがごとく、自らの精神世界の暗闇を、壁伝いにそろそろ歩くような真似はまずするまい。しかも、一人ぼっちで。

しかし、無から有を創造する営みは、その思索のなかにある。あるはずだ。真っ暗闇を進む片手に握るものは、ひとによっては剣となり、魔法の杖となり、大切な人の手となり、光明を切り開く。改めて言うまでもないが、その力は世界を動かしうる。それは思索に耽り、創造に至ったものだけの勲章なのだ。

そう、だから、半年くらい、なんだか書く気が起きないな、やりたいことがたくさんあって忙しいしな、と思っていたのだけど、ポンポさんの言葉で、自分はそこそこ満たされているということに気付いたのだ。幸福とまでは言えずとも、ひとまずは安寧のうちにいる。
ひとまず、と言うのは、ときおりぼーっと思索に耽ってしまい、碌でもないマイナス思考に沈み込むからだ。穏やかな航海をしていた安寧丸が、突如として後悔の嵐に巻き込まれ、あわや沈没というところまで揺れる。
そういうときはお酒で正気に戻っているのだけれど、この日記とて、思索のひとつである。充実した時間を過ごしていると、どうにも筆が進まない。ほかのことをしたくなる。映画を見たり、ギターを弾いたり、ゲームをしたり、本を読んだり、出かけたり、お酒を飲んだり...。

そうして徐々に書くペースが落ちていった。やはり安寧は、幸福は創造の敵なのだ。

でも正直、自分でも気付いている。これは満足とかではなくて、余暇さえあればずぶずぶと思索の沼にはまっていく自分を、自ら目を眩ませて、そうしないように導いているのだ。「自分の機嫌は自分で取る」みたいな。
でも、とすると、本当に満足するには?まんぞくゲージを満タンにするにはどうすればよいのか?ということを考えねばならなくなる。また思索である。堂々巡り、胎内巡り。哀れ、哀れ。ちゃんちゃん。

 

今日のお酒:虎斑霧島のお湯割り