23/01/11 シュ・ハリ

昨日のインプットの話の続き。

少し前にTwitterで(いつもTwitterで話題を獲得している(丁寧なインターネット生活か?)自分が心底嫌になるが)、「知識がない方が個性が生まれる」というトピックが、その誤りを正す方向で話題だったことを思い出した。

凡人がウンウン唸って捻りだした一個の着地点は、過去に「もっとしっかり考えた人たちによって」すでに生み出されていて、車輪を再発明して自己満足に浸っているに過ぎないよね、という主旨で、2,3年前にも同じような話題が盛り上がっていたような記憶があるし、學びて思はざればなんとやらで、この話題こそ車輪の再発明だろと思わないでもないが、さておき、日々の思索という点では、これをただ頷いてばかりではいられない。

とりわけ答えのない、自分で腑に落ちる答えを選択するタイプの問いに向き合ったとき、それに対して多面的な切り口を作り出し、よりベターな(アイデンティティに寄り添った)答えをつかみ取るには、それこそまさしく先人の知恵を拝借せねばなるまい。

先に述べた言葉も魯国の賢人のものであるし、こういった引用はむしろ賢しらな印象すらあるが、巨人の肩の上に立って、日々の気付きを、もっと詳らかにしていきたい。

そういう意味でも、ついぞ真面目に向き合ってこなかった思想家たちの言葉に向き合ったほうが良いのだろう。正直、かなり億劫だけれども。

 

最初の話題に立ち戻れば、最終的には、知識を吸収して吸収して、それを自分の力でひとつの形として出力したときに滲み出る真似事ではないものが個性である、と落ち着いていた。

なんぞや、守破離という便利な言葉があったではないか。

やっぱり、140字の繰り返しで生み出されるエッセンスなど、とうの昔に結晶化されているのだなあ。ちゃんちゃん。

 

今日のお酒:ズブロッカ(うまい!)