23/10/15 Resolution

東京ステーションギャラリーで、春陽会にフォーカスした展覧会が催されているので行ってきた。「春陽会誕生100年 それぞれの闘い 岸田劉生中川一政から岡鹿之助へ」*1というやつだ。

洋画、特に近代のそれが好きなのでホイホイ吸い寄せられたわけだが、予想を上回る質と量で大満足だった。春陽会はそれぞれの画家の個性を尊重していたことから、作品は油彩に限らず、版画や水墨画、挿絵など形式の段階で多岐にわたっていて、そうした「各人の思想・理念を尊重しながら、同一の理想を追求する」集まり(幻影旅団みたいな...)が好きな自分にとっては、たまらないものだった。「それぞれの闘い」という副題の意味が理解できた。

付け足して言えば、いろいろな作品の中に、各々の(グローバルに対置される意味での)ローカルな要素が滲み出ている点もまた魅力的だった。人生の歩みの中で見たもの、聞いたもの、触れてきたもの、数多あるそれらを選り分けて、自らの血肉となったもの。そうしてできあがった今の自分がフィルターとなり、描きたいものを濾過して、画面に滴下する。

今回触れた絵に限ったことではなく、この世界に表現されるものはすべて、そうして生み出されるものだと思うけれど、その中でも、浮かび上がるものが各人のルーツ、出生にまつわるものが好きなのだ。

近代の絵には、自己というフィルターを通して、世に何かを表さんとする心意気、覚悟、それと、そこに表出する各人のルーツ、その二要素が特に強く籠められている気がする。なぜかはよく考えたことがないけど。

 

そう、それで、途中、あらゆる感想が口から出てしまうタイプのおじさんがいた。結構な声量でセザンヌか〜とかなるほど〜みたいなことを言っていて、単純に言えばもう少し小声にしてくれ〜って感じだったのだけど、岸田劉生の挿絵(来迎図風のものだった)を見て、素晴らしい素晴らしいと連呼していたことには、少し思うところがあった。「彼は何を素晴らしいと思ったのだろうか?」と。

挿絵は精緻で色彩豊かで、たしかに「素晴らしい」と言えるものだったと思う。だが自分はそうとは思わなかった。理由はいくつかある。ではそれらが満たされた場合に素晴らしいと思うか? それは分からない。

要するに、自分が何かを良いと思うときこそ、何が良いと思ったのか、分解していくべきではないかと思ったのだ。好きだ・良い・素晴らしいというポジティブな感想が出るとき、そこを細切れにしていこうという動機は働きにくい。満たされているからだ。それに比してネガティブなものに対しては、それによってもたらされる不快な感情を打ち消すべく、拒否反応を惹き起こす原因を突き止めようとする。少なくとも、自分はそうしてきた。

良いと思うもの、それを解剖するのは野暮な気もするが、しかし、その解像度が上がっていくことで、自分で自分を満たす、それが上手になっていければいいかもしれない。