23/01/30 Text(ile)

昨日はBunkamuraで開催されていたマリー・クワント展の最終日に赴き、既成概念を打ち壊さんとする精神性とエネルギー、そしてそれを実現せしめた迸るセンスに震えた。その後、楽器屋や服屋を彷徨い、21時過ぎからゴールデン街を放浪。日曜日なのにそこそこ飲んで、終電ギリギリで震えた。

 

衣服についての考察など、長い学問の歴史で腐るほど繰り返されていそうだが、マリー・クワントに接して考え、思い出したことは、装いは、ひとの内面のうち大きな一部分を露わにする自由な表現のひとつであり、あるいは、各人を何かしらの形で規定しうる拘束でもある、のだろうということだ(このあたりの研究には触れてみたい)(松濤の異性装には行きそびれた)。

長らく、労働者たる証の洋服(後者にあたるものだ)を一週間七日のうち五日着て、休日は流行り病を家族にうつすことを恐れて出歩かなかったがために、自由な表現としての衣類を全く持ち合わせずに、トレンドが最も早く、最も多く生まれる土地に戻ってきてしまったからさあ大変。常軌を逸した頻度で衣類を購入する羽目になった。なっている。

ところで、衣類には一般的に性別のラベルが付されており、それは自分に、些か居心地の悪さを感じさせる。そして、そのラベルの内側で、圧倒的にその種類に差があることも、こちらは寂しさを感じさせる。

言うまでもなく、誰がどのような装いをするか、ということは本来何者によっても制限されていない。だがこれは理想論で、自分に括りつけられたタグをちぎり捨てて、オールマイティなワイルドカードになることは、時と場合によって、かなり困難を極める。

当然ながら、自分もそれができない。短くない期間で膨大な数となり、四方八方からのまなざしによって固着したタグは、もはやそれ自体が装いではないか?

 

変なところに行き着いたが、ほかにもいろいろなことを考えた。とくに、装いは内面のトリートメントになるのか?つまり、内面の湧出としての装いは、内面にフィードバックするのか?ということだが、これはまた別の機会に。

早いところ、ディオールも見に行かなければならない。