23/01/17 ガラス玉

電車で隙間に座りづらい。

ひとびとが衣類を着込み、物理的にボリュームアップする冬は尚更である。いや、むしろ薄着になる夏の方が心理的障壁は高いかもしれない。

とにかく、個々人の体格差はあれど、結局身体の側面は衝突する。既に座っている人間に対して接触せざるを得ない座り方は、文字通り肩身が狭い。すでに座っている側としても、隣に座られると物理的に余裕が失われて、精神的な余裕も漸減するのだから、座られる側の気持ちをも考慮に入れると、やはり吊革にぶら下がるか、ドア際にもたれるかの選択になる。

あれこれ理屈を捏ねたが、究極人に挟まれて座るのが嫌なのだ。立つのも嫌だが。

 

椅子取りゲームに負けたらすみっコぐらし、どこの・どの規模の社会的空間でも共通していて、それは早い者勝ち、ということに還元される。

出遅れたものが、その経験値を追いかけて取り戻し、追い越すのは、並大抵のことではできない。

あるいは、不可能なことさえもある。過ぎ去りし時を求めて、たとえば彩りに満ちた学生生活を求めて再入学などしたとしても、すでにそこにいるべき年齢を通り過ぎた我々にとって、そこは居心地の悪い、馴染み切れない異質な空間に違いない。朱に交われば、とはいかないこともある。

だから、これは比喩だが、欲しい席は他人に取られないうちに座りにいかねばならない。いくつか用意されている席ならいざ知らず、ひとりひとつしかない席だってある。座りたくても座れない席もある...。

 

ある種の自戒を込めた日記になってしまった(要するに席を取られたのだ)。

とどのつまり、急がば回れとか、果報は寝て待てとか、そんな悠長なことを言っている暇は、きっと人生にはない。

少年老い易く学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず。10代のころには、その後段の意味はよくわからなかったが、一年が過ぎるのが早いなあと感じたとき、真にその理解を得た。

労働は我々の生活を圧迫して、あっという間に秋の風を運んでくるのだなあ。あなや、あなや。

 

今日のお酒:倉吉