23/09/25 明言の儀

親しいひとが落ち込んでいるとき、自分にできることはすごく少なくて、たとえば話を聞くとか、それこそただ単に傍にいるとかしかできない。それはとても心苦しくて、あなたの苦しみを和らげることができなくてごめんね、といつも勝手に思ってしまう。でも、聞いてくれて、傍にいてくれてくれてありがとう、と言われるだけで、ああ、居てよかったんだ、と救われる。

きっと、「自分は全然力になれていない」と独断してしまうのは、かなり自己評価が低いか、形ある好意的な反応がないと不安になってしまう対人恐怖症的なものがゆえだろうけど、しかし、ひどく傲慢な態度なんじゃないかと思った。相手から拒絶されていないにも関わらず、勝手に無力感を感じ、勝手に落ち込む。相手のためを思っているようで、独善的で、自分が相手にどう思われているかばかり気にしてしまう。いないよりは絶対いいはずなのに。...本当に?

ああ、嫌だ、嫌だ。考えすぎなだけなのかもしれないが、考えずにはいられない。きっとカミナにも怒られるだろう。「お前が信じるお前を信じろ」と。

私はあなたのことを思っている。それだけでいいはずなのに。

 

どうしてこんなことを考えたかと言うと、シンプルに友達が落ち込んでいたからだ。会社の人間と折り合いが合わないらしい。自分はと言えば、8年ぶりの人狼に緊張しながら参加したら、経験豊富なお歴々に囲まれ、ほぼほぼ地蔵状態、しかもその状態で3連続で人狼を引き、挙句冷房の風で腹痛になる始末。心身ともにどん底状態だったので、友達が一人でお酒を飲んでいると言うから慰めてもらおうと(この時点で浅ましい考えなんじゃないか!?)赴いたら、自分より落ち込んでいる人間が出てきたのであった。

ふんふん、と話を聞いて、頷いて、内心(人狼と同じで全然友達の力になれていない)と落ち込んでいって、でも最後にありがとう、と言われて救われた、そういう話です。

 

特にオチはないけれど、そうだな、分かりきっていること――愛情でも、感謝でも――を、ちゃんと言葉にすること、それはとても大事なことなのだと思う。言わなくても分かる関係でも、言わない間に零れ落ちて行ってしまう細やかなものを、言葉にすることで伝えよう。そう思った。