自己肯定感というのは厄介なものだと常々感じる。ありすぎても疎まれやすくなるし、なさすぎても疎まれているのではないかと勘違いしやすくなる。自己肯定感の高低は、積極性の多寡とイコールで繋ぐことができそうだ。
積極性という点では、自分はそれがひどく乏しい。自己肯定感に関しては...あまり良く分からない。たぶん低い。低いけれど、そういう状態を「仕方ない」と受け入れる(諦める)ことに長けている気がするので(良く言えば「切り替えがうまい」、悪く言えば「諦めが早い」)、かなり歪な状態でバランスを取れているようだ。
その状態も良し悪しで、ダメな自分を「仕方ない」と了解しているからこそ、かつての自分は、自身の成功体験に基づいて、こんなにダメな自分でもできることがどうしてできないんだ、という嫌な考えを持っていた。今は、あらゆる事象・あらゆる状態に至るには環境要因が大きく関わってくるのだから、(自分も含めて)上手くいかないことは「仕方ない」と受け入れるようになった(これも良いことなのか微妙だが)。
一方で、「仕方ない」と受け入れることで、自己肯定感について考えなくて済むかと言うと、これもひとによるのだろうなあと思う。自分は現に、無益と思いつつも考えてしまっている。
考えやすい人はとことん考えるし、考えない人はまったく考えない。後者は、ひょっとすると他のことで頭がいっぱいなのかもしれない。いわゆる忙しくて余計なことを考えなくて済む状態だ。結構羨ましい。翻って前者は、考えないようにしよう、と思っても、いったん考え始めてしまうと、そこから抜け出すことは困難を極めると思う。源氏物語の注釈に、「思はじと 思ふもものを 思ふなり(考えないでいよう、と考えること自体、すでに考えてしまっている)」という歌があって、これを知ったときは、千年前から同じことを考える人はいるのだなあ、と感心した。
だから、こうして自己肯定感について言及しているという事実が、自分のその低さを裏付けているのだろう。とすれば、おそらく、自身の自己肯定感について語る人は、おしなべてそれが低いのではあるまいか。「何が分からないのか分からない」のと同じで、自己肯定感が高いひとは、それについて考える必要すらないのだ。
なんだか薄暗い結論に至ってしまった。もしこれがそれなりに正鵠を得ているだとしたら、ことばを大切にするものにとってあるまじきことかもしれないが、願わくば、自己肯定感ということばが絶滅する未来のあらんことを。