23/09/06 感傷的癇性

いつの間にか夏が後ろ姿になっていた。

昼間は全然まだまだ夏が居座っているような、ずしりと重く熱く湿った空気に押しつぶされそうになるけど、19時にはあたりは暗くなっていて、日が変わるころには涼しささえ感じることがある。秋の虫なんて、草木が眠る丑三つ時でさえも、やっと来た出番だとばかりにわんわん鳴いている。こんな落差の激しい晩夏だったなら、さすがの藤原敏行も風の音ではなくて虫の音に驚いたことだろう。

こういう秋の訪れに接すると、必ず高校最後の年の学祭を思い出す。夏休みにも関わらず、盆明けから2学期が始まるまでほぼ毎日登校して、午前は受験に向けた補習、昼からは学祭の準備をして、9月に入ってからも授業が終わったら(部活は引退しているので)学祭の準備という濃度の高い日々を送っていたころ。必然的に下校時間は夕方になる。日が傾いで空の半分が橙色になり、天頂には青と夕焼けの混じった藍色がのさばって、家に向かっている最中にその藍色がどんどん空を侵略していく、あの時間帯。

もの悲しく、それでいて今日学校ですべきことが終わった解放感と、家に着いたらまた勉強しなければならない気怠さ。終わり行く高校生活と、終わり行く一日が重なるノスタルジー。正と負の感情がぐちゃぐちゃに混ざって、まさしく空の藍色と似た心情を呈する。この季節の夕方は、その感情の記憶、その複雑さと感傷的度合いの高さが相まって、深く深く自分のこころに刻まれているのだと思う。

結局のところ、受験と学祭とを並行して進めて、そのいずれも思わしい結果は得られなかったわけだけど、それでもこうして、未だに思い起こすことができる心象風景があるというのは幸せなことかもしれない。インターネットのオタクたちのように、存在しない夏の記憶を追い求めて、ひまわり畑にいる、麦わら帽に白いワンピースのあの子を集団幻視することに比べたら、いくらかマシ、うーん、いや、似たようなものか。