野暮用があり、銀座まで行った。
新橋から歩いたのだが、SLが何やら工事で柵に囲われており、「見たことあるアングルで写真を撮るやつ」をできなかった。ほぼそのためにわざわざ新橋まで行ったのに。
新橋にはムーンシャインという気になっているバーがあるので、次回はSL広場で「見たことあるやつ」をやりつつ、そこに行ってみたい。
銀座には早めに着いたので、GINZA SIXに行ってみた。
中身はだいたいほかの商業施設と似通った顔ぶれだったので面白みに欠けていたが、6階の蔦屋書店(TSUTAYAとは扱いが異なるらしいことを今日知った)は趣が異なった。
そもそもカフェ併設型の書店(ライフスタイル型と言うらしい)に行くのが初めてであり、「本屋にスタバのコーヒーを持ち込むなよ」と思ったこちら側がどうやらマイノリティであることに気付くのにやや時間を要した。
どんな書店であるかはインターネットに無限に写真が転がっているから省くとして、衣食住や歴史など、文化のジャンルごとにピックアップされたコーナーは、品揃えという点に目を瞑ればエンタメ的に楽しむことができた(ちょうど開催されていた永井博のプチ展覧会も良かった)。
今日の思索は、そこで見つけた詩集をぱらぱらとめくって思ったこと。
おそらくこういう日記も、突き詰めていけば、詩になっていくのかもしれないと思った。
今自分が綴っているこの日記を、「自分は何を感じた/考えた」ということを要素に還元して、さらに瞬間ごとに区切って、より適切な言葉を付与して升目にぴっちり差し込んでいく(その域には到達していないが)営みであるとするならば、詩は、もっと長期的な時間軸で、抽象的な情動を、そのまま言葉で摘み上げて積み上げていく営みだと感じる。
実質的な行為としての差は、どの段階で言葉に変換するか、程度の、タイムライン上のわずかな差にすぎないが、出力される文章(日記と詩)を見比べれば、言わずもがな雲泥の差である。
人間を細胞の集合体と捉えるか、人間を人間としてありのまま捉えるか、という感覚。
その感覚に従えば、情動を可能な限りの最小単位で四角四面に切り取って言葉と紐づけていくパズルよりも、きわめて個人的な、その瞬間の情動を、ある種のリズムで描き出す落書きの方が、ヒューマニズムに満ちているのではないかと、つまりこの日記も、そのうちその方向に舵を切っていくことになるのかも、と思ったのであった。
ちゃんと整理しきれていないが、とりあえずこんなことを思った、という日記なので、これはこれで置いておきたい。
アルコールに浸っていないシナプスで、深く潜っていければいい。いや、そうしたら、こんな小恥ずかしいテキストを、世に垂れ流しはできないのだろうけど。