23/01/08 21st Century Schizoid Man

閃光のハサウェイを見た。

とんでもない不完全燃焼感を残して話が終わり、嘘だろと思って調べたところ、三部構成の第一部だったので助かった。

 

こういった前情報の欠落だったり、好みに合わなかったり、またはただ単に駄作だったり、というガッカリするリスクと、2時間2,000円という拘束時間・代金を天秤にかけると、やや尻込みしてしまい、あまり映画館には行かないな、ということを考えた。

もちろん、あえて前情報を入れずに映画館で新鮮なうちに見ることで得られる体験は極上のものであるし、実際プロメアはそうだった。

 

自宅でレンタルのDVDだったり、配信サービスで見たりするよりも、映画館で見たほうが良い要素は、封切りや上映開始を楽しみにするワクワク感や、他のものに気を散らされずに見る没入感、新作の話題に触れられる新鮮さなど、いくつもある。

なのになぜ、と前述のことを前提として考えてみると、自分のほかのことに対する傾向を考慮に入れて、大きくとらえれば、体験に対して対価を支払うことを、かなり分の悪いギャンブルだと考えている節があるように思う。

バーに行って、普通に手に入るウイスキーを割高で飲んだときには、受けたもてなしなど考慮に入れても総評としてマイナス感情を抱くだろうし、良いレストランに行って、期待にそぐわない程度の料理が出てきたときには、そのあたりのファストフードのチェーン店にでも行けばよかったと思うだろうし、その場において得られた体験が良いものであっても、周囲の客に気分を害された、とあれば、むしろそっちの方が記憶に残ってしまうと思う。

神経質な完璧主義者みたいな文章になって自分でも心底気持ちが悪いが、結局のところ、せっかくの体験に、マイナスポイントがつくことが嫌なのだと思う。

差し引きプラスであれば十分にいいはずなのに、というか、加点方式でいろんなことを考えるよう努めているはずなのに、悲しいかな、実践できていない。

 

もしかすると、自分が衣食住のなかで、衣食をほぼ軽んじてると言っても過言ではないほど、住を最重要視していることと関わりがあるかもしれない。

それはまた別のネタにとっておくとして、畢竟、そういう体験は、誰かと共にすることが大事なのだろうとも思う。「家族と・友人と・恋人と」という枕詞ひとつ付くだけで、きっと記憶の彩りは華やかになる。

思い返せば、興行的にはかなりビミョーだった映画も、家族と見て、楽しめたのであった。