22/12/28 My Hair is...

髪を切った。

事実に感想を付け足して言えば、髪を切りに行って、あまり嬉しくない切り方をされた。

無論悪いのは切ってくれたひとではなくて、自分が自分の髪をどうしたいか、ということを精緻に伝えなかった自分が悪い。一般的な判断基準に照らしてみれば、自分が「このまま伸ばしていきたい」と伝えたことに対して、もたらされた今ある結果は至極妥当な整えられ方だと思える。

そういう反省点を踏まえつつも、今日の振り返りとして思うことは、自分がどうありたいか、ということを憚らずに言えなかった、自分が憎くて、悲しいということである。

 

「自分のスタイル」というものが個々人にはある。それは好みだったり、憧れだったり、いろいろなものから影響を受けて、地層のような積み重ねとしてオンリーワンのものに育っていくと思う。

一方で、それは社会的な抑圧によって捻じ曲げざるを得なかったたり、あるいは他の要請によって、自ら方向修正を余儀なくされることがあったりする。むしろ、その方が多い。

そしてそのタイミングは、言うまでもなく、悲しきかな、往々にして、モラトリアムの終焉と共に訪れる。社会のモールドに収まる範囲での「スタイル」に許された余白は、満員電車で身体を動かすことができる余地とそう変わるまい。

 

翻って、自分に与えられた余白は、幸運にも、かなり大きい。

今いる環境には、両耳で7つもピアスを付けているひとや、髪の色が緑のひとなど、「自らのスタイル」を貫いているひとがたくさんいる。

そこにあって、自分の意志の弱さで(社会的規範に従ってしまって)、自ら「自分のスタイル」を破壊してしまったことが、ひどく悲しい。自分に対する失望という意味で、悲しい。

 

でも実際難しいのだ!

ひとは見かけで判断する。その判断に基づいて、ときに勝手に、ものを言う。

そこに配慮があったとしても(大抵はこの配慮すら無いのだが)、それに対して「そうではない」と訂正を入れることの申し訳なさと、気恥ずかしさと、苛立ちと、失望と、呆れと、それらに付随するあいまいな感情がないまぜになった哀しみは深く、色濃い。

そういう感情に立ち向かうことができなかったのだ。

 

だから次は勝ちたい。いまのBadな気分と髪型に、そう思って、書いておく。

 

今日のお酒:大吟醸 八海山