24/05/14 Ch-ch-ch-ch-Changes

ブログの見た目をちょっぴり変えた。

スマホやパソコンの壁紙を変えたり、部屋の模様替えをしたときと同じリフレッシュ感がある。物理的には大した変化でなくとも、日ごろから頻繁に目にするものが変わると大きな変化に感じられるらしい。

以前、なんなら開設したときから、前のデザインはフォントサイズが少し大きいと思っていたので、今のデザインはかなり気に入っている。それに、自分が書く文章のリズムと一行の文字数が噛み合っていなかったみたいで、1,2文字だけ次の行にはみ出してしまうことがよくあった。あれは非常に見栄えが悪いと思う。電源とかのコードを蛇腹に束ねて行ったら、最後曲げても曲げなくても不都合な長さが余ってしまったときのやるせなさに似ている。心地よい文章のリズムと、自分で決めている表記ルールと、それが配置されたときの見栄え。それらが自分の意図を上回って、バチッとハマると気持ちいい。ことばの神様に迎えられているような気分になる。

そういった、パズルの最後のピースを嵌めるような快感は滅多に得られるものではないと思う。先の例に照らしてみれば、所与のものと、己自身(の客観的に見れば些か不合理な信念)と、それらが配された環境の条件、3つが組み合わさったものが、ふたたび自分のもとで、自分の予期した以上の完成形となって、ようやくもたらされるものだ。自分で縛りを課しておきながら、自分の予想を上回るものを望むのはなかなか傲慢な気もするけれど、だからこそ気持ちいいのかもしれない。縛りプレイの醍醐味と同じだ。

だから、話を戻すと、3要素のうち、環境の条件だけは自分の思うがままに整えられるものだ。結果を受け入れる自分も変えられるには変えられるが、それはつまるところ妥協・敗北に過ぎない。だから、自分の周りを、自分が最もしっくりくる形に、自分で整えていく必要がある。

気持ちよく寝るために高価なマットレスを買うとか、快適に絵を描くために液タブを買うとか。あるいは住む場所を変えるとか。孟母三遷と言うが、いい年になったら自ら三遷せねばなるまいて。

環境がひとを作るということばを自分は結構信じているが、その環境はある程度自分で選び整えられるのだから、そこを怠っちゃいけないな、と思ったという話でした。