23/01/23 呵!

万年筆が書けるようになった。万歳。

万年筆で書いた字には、墨書のようなのっぺり感はなく、硬筆のような角々しさはなく、ボールペンのような粘着感もなく、水彩画のようなサラサラ感がある。文字の一画一画ごとに異なるインクの滲み方をするために、同じ質感の文字は二度として書けない。いや、もちろん、そもそも寸分違わず同一の文字を書くことは人間には不可能だろうが、人の手でコントロール不可能な線の濃淡が生じるところに、文字を刻み込む営みの「一期一会」感をまざまざと感じることができる。

たぶん、そういう点で、一番書き慣れている文字列を書くと、その瞬間、最も「書いている」という実感が得られるだろう。

言わずもがな、それは自分の名前である。

人生において、自分の名前を書く機会は、歳を取ればとるほど、驚くほど少なくなっていく。義務教育期間においては、一日一回は少なくとも書くような気がするし(もう覚えていないが)、それ以降の学生時代でも、週に一回は書くことになるだろう。

ところがモラトリアムを終えてみると、根本的に筆記具を手に取るシーンが壊滅的に減少する。すべてが文字コードとフォントというフォーマットに集約される電子計算機上で、記憶させた自分の名前をTabキーで選ぶだけになる。それはすでに署名ではなく、打ち込みですらなく、ただの選択である。検索ボタンを押すことと、本質的には同等だ。

その良し悪しを考えるような気はないが(それは受容せざるを得ない「仕組み」である)、少なくとも、自分の名前に幸運にも愛着を持てている身として、数少ない署名の機会は、大切にしようと思えた、原義筆下ろしの日であった。

 

今日のお酒:なし。休肝日。