23/03/23 うき世になにか久しかるべき

桜がかなり咲いていたが、今日は生憎の雨だった。明日も、明後日も雨らしい。

春雨を降らせる雲には、完全に陽光を遮るほどの厚さはなくて、その明るい灰色を背景にすると、薄桃色の花弁はほとんど真っ白にも見える。ただでさえ今にも散ってしまいそうな儚さを湛えているのに、艶やかな色合いが相対的に褪せるだけで、ますます雨風に耐えかねて散ってしまいそうな頼りなさが増幅する。

しとしとと降る雨は写真には残らないけれど、背景と同化した桜を撮っても、趣も何もない。晴れて麗らかな陽気の青空のもとでこそ、寒色と暖色の対比が季節の繋ぎ目を模しているように見えて「映える」のだ。

 

季節はいつも、「目にはさやかに見えねども」なんてことはなくて、五感で感じられるあらゆる自然界の要素をもってして、その移り変わりを知らせてくれる。風の音に驚いて秋の訪れを知るなんて、藤原敏行オフィスビルに籠るワーカホリックだったのか?とすら勘繰れる(もちろん、この歌は立秋に詠まれているから、ただのハッタリだ)。

林立するビルや犇めく集合住宅とは程遠い片田舎で、農家の親戚と親しくして育ったから、そうしたアンテナの感度が高いのかもしれない。ウグイスは春に文字通り欣喜雀躍するし(実際、ウグイスはスズメ目だ)、夏にはホトトギスがやってきて、夏とともに去っていく。冬にはジョウビタキがけたたましくシベリア気団の到来を告げる。

野に咲く花だってそうだし(花屋に並ぶ種類が変わるはずだ)、スーパーの野菜や魚だって顔ぶれを変える。そういう意味では、都市生活においても、日の長さ以外にも季節の変遷をひしひしと感じることは可能なのだ。

 

一方で、平日を労働に費やさざるを得ない人間にとってみれば、気付けば春が過ぎていた、なんてことはザラにあって、ときには桜の散り際も見逃してしまうのだろう。桜が咲いて散ると、途端に出会いと別れの季節の印象が異常に強調される。

そう、今日は母校の卒業式だった。振り返れば学生生活はあっという間で、まさしく「刹那に散りゆく」ものだったなあ、と、この季節になるたび、思い出すのだ。

母校は銀杏の方が多かったけど。

 

今日のお酒:グレングラッサ リバイバル